和食だしの王道・削り節の歴史!関西と関東のだしの違いを解説

和食だしの王道・削り節の歴史!関西と関東のだしの違いを解説

2013年12月4日に「和食:日本人の伝統的な食文化」が、ユネスコ無形文化遺産に登録されました。このように和食は世界が認める日本の食文化です。そのような和食の「旨味」の決め手となるのが「だし」です。

今回はだしとして人気の鰹節を削った、削り節についての歴史を紹介します。また、関西と関東のだしの違いについても解説します。

削り節と鰹節の違い

削り節と鰹節の違い

鰹節はよく聞きますが、削り節(けずりぶし)はあまり聞きません。その違いは何なのか気になるところです。削り節とは、鰹や鯖にマグロなど干した魚を薄く削ったものです。鰹節は鰹を加熱して燻製にし、乾燥させたものであり、削った状態でも鰹節ですが、正確にいえば「鰹節」を削ることにより「鰹削り節」になります。

まれに、「いわしの鰹節」とか「マグロの鰹節」という方もいますが、これは間違いで「いわしの削り節」「マグロの削り節」が正しい表現です。削り節は日本食の調味料の基礎といわれ、昆布などとともにだしの素材として日本料理には欠かせないものです。

一昔前まではだしとして使用する直前に、鰹節を毎回削っていたものですが、近年は工場で削って窒素を封入し、酸化や香りの劣化や飛散を防いだパックタイプの鰹削り節を利用するケースも増えています。

削り節の歴史

削り節の歴史

削り節としてよく使われる鰹節の歴史は古くから認められます。そもそも鰹節とは、「かつお」を節にしたものです。節とは塊で、スーパーなどで見かける木片のような、削っていない節が本来の鰹節です。

鰹節となる鰹と日本人の関わりも古くからあり、縄文時代の遺跡で、鰹の骨が見つかっているほど古くから鰹を食していました。飛鳥時代になると、鰹節のルーツとなる「干し鰹」と、鰹節の副産物「煎汁(いろり)」が作られた歴史も残っています。

また、干し鰹は鰹をそのまま干した「堅魚(かたうお)」と、煮てから干した「煮堅魚(にかたうお)」がありました。「煎汁」は堅魚の煮汁を煮詰めたものです。

醍醐天皇(だいごてんのう)の命により927年に撰集された、平安時代前期の法律や社会を知る重要な文献である『延喜式』には鰹に関する記述があります。駿河国焼津浦より「堅魚(かたうお)」・「煮堅魚(にかたうお)」・「堅魚(かたうお)煎汁(いろり)」の貢租があったと記述されていて、当時から鰹が加工されていた記録も残っているのです。

室町時代に花かつおを使っていた

その後、カビを付けていない鰹節のみを削った「花かつお」は、室町時代の1489年に書かれた書物『四条流包丁書』に「花鰹」という文字がみられ、当時から料理に使われていました。また、1540年の『包丁聞書』には、雑煮の上置として花鰹が使われた記録もみられます。

その頃から鰹節はだしを取るためだけでなく、料理の味を演出するために使われていたと推測できます。当時からかたい鰹節を薄く削って、日々の料理のアクセントとして使われていたようです。すでに現在とあまり変わらない削り節の使い方が行われていたのです。

江戸時代に鰹節は全国に広まる

鰹節が広く全国に知られるようになったのは江戸時代になってからです。紀州の焙乾小屋が改良されて鰹節が大きく進歩しました。それにともない、大阪の堺の大商人や、京都の上流家庭で煮物料理や汁物が盛んに作られるようにり、旨味を加えるために鰹節がだしとして用いられるようになったのです。

土佐で鰹節の焙乾が誕生

その後、熊野節の鰹節の製法を土佐の清水浦に伝えたのが、紀州印南浦の漁民、角屋甚太郎親子です。土佐藩の後押しもあり、甚太郎は煙を利用していぶして乾燥する焙乾(燻乾)を考えだしました。甚太郎は元禄時代(1688)頃から安永(1780)頃まで、煮熟・焙乾・カビ付けの技術を思いつき、鰹節を改良し土佐節とよばれました。

さらに進化した鰹節が伊豆節

江戸時代後期になると、紀州の土佐与市という鰹節職人が、1781年に安房へ、そして1801年に伊豆へと、両国に改良土佐節を紹介しています。伊豆はこれを熱心に取り入れ、土佐節の製法をベースにし、カビ付けの回数を2~3回以上行い、脂肪や水分を節から抜く加工法をあみだしました。これが伊豆節です。

現在まで続く焼津節

明治時代になると、伊豆節がさらに発展して、土佐節・薩摩節・伊豆節が三大名産品と称されるほど人気になりました。さらに1897年(明治30年)頃、徹底した焙乾と3~6回のカビ付けを行った「本枯節(ほんかれぶし)」の「焼津節」ができました。以後、「焼津節」が鰹節業界では製造方法の主流となって現在まで続いています。

関西と関東のだしの違い

日本におけるだし文化では「東の鰹節、西の昆布」と、長い間よばれています。江戸時代になると、北海道の松前と、本州の間を行き来する交易船によって、北海道で生産された昆布が本州まで運ばれるようになりました。海上交通が盛んになり、日本海から山口県の下関を経て、瀬戸内海を通り「天下の台所」である大阪へ昆布が運ばれました。この航路のことを「昆布ロード」とよんでいたのです。

経済力があった京都や大阪の有力者が上質な昆布を買い求め、売れ残りが江戸で消費されたこともあり、関東では昆布だしが発達しなかったといわれています。

また、関西の水は軟水で、昆布だしに適していました。そのような背景から、関西では主に昆布だしが好まれ使われるようになったといわれています。一方、関西よりも水の硬度が高い関東は、昆布だしに向いていなかったこともあって、関東では鰹節がだしとして好まれたのです。

まとめ

日本人の食文化の叡智といえる鰹節や削り節について紹介しました。また、関西と関東のだしの違いにも触れています。世界が認めた和食はおいしだけでなく健康にもよく、鰹節のように保存して、無駄なく食べる工夫がされています。栄養価も高い削り節を食べましょう。

「丸与有限会社」は大阪市中央区谷町にあり、創業250年あまりの歴史ある老舗の鰹節専門店です。ひときわ食にこだわりがある大阪の商売人さんやご家庭よりご支持いただいております。当社は、どの時代でも不変な「食べることへの幸せ」を影より支えて参りました。時代とともに移り変わる食のニーズに対し、風味と使い勝手が共存した品をご用意させていただいております。

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